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ピースの凝結

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残す作業

今日の仕事やり終えた。どうしてもこの休みのうちにまとめておきたかったから、形になってよかった。

やはり、作ることだけではなく、残すための作業の大切さ。

一人でやるには限界はある。

でも、できる範囲で重要なところは抑えておきたい。作品にしても文章にしても。

それでね、絶対にこれは自分にしかできないという自負はある。

まだまだだけど、それでもここまでやってきた蓄積は必ず重要な仕事として残る。それを信じてやり続けるしかない。

明日からもまた頑張るぜ。

ではZZZ

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発見の蓄積は一線を画す


小さな発見を重ね続けていけば必ずどこかでそれまでと一線を画する瞬間が来るという考え方を信じていて、それを持ってまた次に進むの繰り返し。

個人的な「これまで」のさきに、歴史として見た「これまで」を見据えて、あくまで個人的な生活から書というものの核心に迫りたい。

核心に向かう切り口は必ず個人の実感の中にある。それはこれまでにあったはずなのにやっぱりどこにもなかった、そこに初めて生まれる新鮮さだ。

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昨日問うて気づいたことを、今日もまた問うてみること

書くということについて考えていると、どこかで先人の似たような考えにぶつかる。

それはいけないことなのかというと、そんなことはなくて、どこかから拝借してきたコピペではなく、ちゃんと自分の続けたことの中から出て来たという実感が伴っていることが重要であり、それは前向きに捉えて良いことだと思う。

大切なのはそこからまた自分の歩みを続けていくことで、それは必ず最終的にはその人にしか歩めなかった道のりになっているはずだ。

毎回同じようなことを書いてるかもしれないが、それでも日々小さな気づきがあり、書き残す。

◎書くということについて

私たちを書くという行為に向けさせるもの
日々暮らす中で何かに出会い、何かを感じる。

そうしたなかに自分にとって大切な何かがあり、

それについて考えるなかで気付く、ということがある。

その気づきを残したいから書く。
自分にとって大切なことを留めるということが書くということの原点である。
◎自分の意志によって運用することと、意志や意図が及ばないところを受容すること

自分の制御の利く範囲内でやるということと、自分の制御の外のものに目を向けること。

それは自分の意志や力が及ばない部分を自覚しながらも、その中で、その時点での自分の考えを見失わずに機能させ続けていくこと。また、そこに自分の活路を見出すこと。その間で問うことは無意味ではない。

◎記録することの機能

自分にとって大切なことを書いている。

あるいは、いまの段階では分からないものを一時的に保存しておくために書く。そこに、きっと自分にとって必要なものがある。

それはその対象が流れていかないように残すためであったり、忘れ去ってしまわないように保存し、ふたたび取り出すために行われる。
◎効果(エフェクト)を取り入れることについて

エフェクトを何かを表す上で採用する場合、それを採用するという制作者の意図が働く。それは言語では埋められないところを援助するための非言語だ。

エフェクトは留めたいと思うものの中にあるイマジネーションの質感の部分を補う。
そうしたことは、絵画であれば違和感なく起こることなのかもしれないが、本来文字言語を扱う書道においては、ことばの質感を文字ではない部分で補うことについては一考が必要だろう。

その点において、繰り返し繰り返しそのエフェクトを採用するということ、または改良を加えながら作品に応じて複数のエフェクトを選択しているということは、その非文字言語の質感の中に一種の言語性(意味性)が含まれていると言える。

既存の言語に落とし込むことによって、言語化する前の段階のものが損なわれる場合、それを言語化しないままにしておくという選択をしても良いのではないか。
言語と非言語の境界を隔て、その違いを明瞭にしていくことにも意味があるだろう。しかし、自分が感じているものや思考を紙の上に表すのところに主眼があるのであれば、その都度その都度、より適切と思う選択をすれば良いと思う。

それはその都度自分が感じている対象について問うことでもある。それは残すという作業を考えた時に必要なことだと思うし、未分化な部分を自分の中に保存しているということは、悪いことではない。

対象と長く付き合っていく上で理解できない、言語化できない部分を認める態度は大切なことだと思う。

また
率直である=中立とは限らないと思うし、必ずしも率直でなければならないとも思わない。

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思考したものをかたちにする

思考したものを かたちにする
ということは そこに絶えず動いているものをシャッターに収めるということに似ている。
流動的なものに触れる・捉えるという感覚。 それは本来なら触れることができないものに自分の手で確かに触れたという実感を伴う。そこに一つの充足感や安心感のようなものが生まれる。

その充足感や安心感というのは、端的に言えば「確かさ」である。
その確かであるという感覚を呼び起こす時に、物質として姿を持つ作品であったり、その人その人の身体を通して感じられるもの(視覚や聴覚と言った五感)が介在することがやっぱり必要なことのように思う。
ーーー

上を踏まえて、ここでまた考えるのは、「思考する、ということもその人の身体によって行われること」であるということ。

ディスプレイの画面に打ち込み、それを眺め、また打つ。そうして画面上に形を成していく。
(先日の投稿「ほんとうが現前する」を受けての続き)

先日の投稿にまた穴を開けて風を通すようなことだと思うが、こうした活字を使った作業というのも、その過程を考えると、実は「予め明瞭なもの」ではないと気付いた。

デジタル画面上の活字は手書きとは違って、書いた後にまた完全に消し去ることが出来る。そこに現れては消え、そこにまた続きが加わるという流動性があり、そうした過程を繰り返しながら、前を受けたものがその後に連なっていく。
明確な白と黒として目に見えるものと、画面上には残らない過程の逡巡や往来。 実は画面上の文章もまた一見確かに見える中に、みえない試行錯誤(形になる前の不確かさ)があったのだと思う。
ではそれをどこで完成とするか?つまり「確かなもの」とし、そしてそれを残すか否かといった決断は、作成者の意志がまずあり、管理者の決断があり、適した保存の技術と運用といった条件が揃って初めて可能になる。
ーーー
話がかなり蛇行したが、 いずれも 不確かさの中にある確かさ、確かなものの中にある不確かさについて考えたことだ。

それは不確かに見えるものからどうやって確かなものを抽出するかであったり、不確かなものを確かなものにしていくことであったり、確かと思われるものを解いていくことでもある。

(加えてもうひとつ書くならば、消せないものについて問うことも大事なんじゃないか。それこそが歴史的なものの見方をする人間にとって大切なことのような気がする。これはまたいずれ)

思うにこうした2つの中に居るという感覚が、自分が「書く」ということを選択したことや、そして自分の作品のスタイルやモチーフに、大きく影響を与えているような気がしている。

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身体とアート

身体とアート
最近読んだ記事で、アートに命を賭ける、ということについて改めて考えた。
高校生の頃パンクに出会い、今思えばそれは「生身の人間が、その場所、その瞬間に、自分の身体・エネルギー・感情を全て注ぎ込んで音楽を鳴らしていて、しかもそれは、音楽を鳴らすということを通して、音楽ではないものをそこに出現させている」ということに物凄く感激した。
僕は19歳〜28歳にかけてバンド活動と書道を並行してやっていた。最終的にはどうやら自分は音楽では上に書いたようなことができないと判断し、書道一本で行くことにしたのだが、絶えずその二つは相互に影響を与えていた。
投稿の画像はちょうど24歳の誕生日の日にあった博多の野外音楽祭のもの。
作品を作り始めたのが19歳からで、21歳からパフォーマンスという形で人前で字を書くということを始めた。
最初は10人のグループで始めたけど、第二回には6人になり、その後は3人、その後は4人、要するに目的を共有できなかった。そのまま自然消滅した。
その間も「生身の身体の限界への挑戦」「自分はどこまで晒していけるか?」という問いがあり、毎回、それまで以上のものを提示すると決めていた。
振り返って、このときがピークだったように思う。最初は1人でやっていたのが、途中から入る「ちょっかい」も全部来いと、アート→なんでもあり→際限のないもの
春の日が落ちる海際の風はやたら冷たく、ラストの方はあんまり覚えてないが、とにかく寒くて、口の中がわけがわからなくて、ガタガタ震えながら抱えられて車に運ばれた感触だけは覚えている。
これは物理的な問題なのだろうか。僕はそれ以降、肉体の限界を晒すということに興味がなくなった。
正確にはそれ以降もそれに近いパフォーマンスを繰り返してはいたが、少なくとも、身体を使うパフォーマンス=物理の限界を身体を使って試すこと という図式ではないということは分かった。









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自分の情けなさを問うところからはじまる

アルファベット初期の作品SEWAGE Treatment Facility

Visualized Talking Voices

enginecyclone
この3つが特に思い入れのある作品で、それがその後の作品の土台になっている。それらがその後の作品に受け継がれる形で増えていったように思える。
1年半前のものが1年半後のいま、おそらくこれからにも渡って、想像と思考を促すということは、その題材にそれだけ強度があったということなのかもしれない。一方では、それら初期の作品について考える事を続けた結果として、より初期の作品が重要な意味を持つことになったとも言える。
そう考えると、そういう過程を経て、今度は今作られている作品が、今後のイマジネーションの源泉になるような、それだけの力を持っているか?という問いが浮かび上がる。
つまり、常に今作っている作品やそれについて考えることを怠らないことだ。月並みな言い方だけど、常にその時点でのベストを尽くすということ。
作品作りの他の日常生活も重要で、それも出来ることなら全てに全力で行きたいのに、力及ばない情けない自分がいる。

この程度しか出来ないのかと本当に情けない。
それでも出来ることからやって行くしか他にない。

そうした日常に活力を与えるためのSEWAGE Treatment Facilityであり、enginecycloneだ。(全くなんのこっちゃだが、そういうことだ)

そうした自問自答の現在地を日々残すことが、自分にとってのVisualized Talking Voicesという作品が持つ、1つの意味だと思っている。

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