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ほんとうが現前する

いかに論理的に正しいか?というのが今の世の中の優劣の基準になっていて、それは昔からそうなのかもしれないが、より顕著になっているように肌で感じる。

それは「筋が通っているか」を問うことでもあり、そこに勝敗があり、自らの理念に基づきそれを実行している人は率直に凄いと思う。そうした何にも負けない真っ直ぐさを尊敬する。

そうした個々人の誠実さに敬意を抱きつつも、それとは別の次元で、世の中がことごとくフォーマットの画一化とリテラシーの有無、「コンプライアンス」ありきで一切そこからはみ出してはならないという空気に覆われていく様に息苦しさを感じる。それは必ずしも誠実ではないと思うのだ。

ルールとは絶えず問われなければならない、ルールの上にあぐらをかくことはルールの外の可能性を始めから否定するということだからだ。

ルール至上主義というのは、デジタル化、情報化の世の中の流れと無縁ではないように思える。

私たち個人個人はいずれ死ぬ。肉体が死んだ後に残るのは、生き方の筋と意志。そしてそれによって作られた、あるいは残されたものたち。

話が少しそれてしまうかもしれないが、生身の人間とその思考をデジタル上の活字に置き換えることについて思うこと。

個々人の考えが論理となり、活字に変換され、そのクリアな形となった文字の配列は、粋(すい)であり、結晶だ。

その奥にある生身の人間を想像しながら私たちはその文章を読み、頭の中にその言葉を立ち上げていく。活字になったからといって、人間が即デジタルになるわけではない。

しかしそれでもやはり思う。画面上のデジタル活字は生きながらに死んでいる文字だと。いわば肉をそぎ落とした骨の立ち姿だ。
自分が言葉を書くときに想定するのは、そうした骨になりきらないなんとも言えなさだ。それは人間とはそもそも個々人がそうした混沌としたぼう洋とした存在であるということであり、それは活字のあの明確なホワイトオアブラックの明瞭さになりきれない存在であるということ。

白黒はっきりしないことがたとえダサかろうとも、そのまんまでいく他にない。

書道とはあらかじめ白と黒の表現なのではなく、そうした生の人間が動いた結果、白と黒になり、またどっちともつかなさや、汚れとか、染みとか、破れとかそうしたものひっくるめた全体として残った跡の存在を言うのだと思う。
だからフォーマットも、論理も一旦どっかに放り投げなければ本当の姿は見えてこない。そのなんもない場所に、全部ぶっこんで立ち上がってきたもの。それはフォーマットも論理も通用しないものを現前させるということ。

お前は一体なんだったんだという、混沌としたぼう洋としたわけの分からないままのものがそこにあるということ。

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ぼんやりとしたものと、ハッキリとここに在るということ

たとえば、音楽を聴いていると、映像というか、閃光というか、自在に動く線描のようなものが見えることがある。音が視覚に結びつく様というのは、音声言語が文字を誘発する地点に立っているような感覚を呼び起こす。

それはどこか懐かしいような感覚で、遠い昔の人々や幼かった頃の自分と、今ここにいる自分が繋がったような嬉しさを感じる。
書いているものは、文字だけがどこからともなくやってくるわけではない。

自分という身体を通して、受け取ったものをマルチアダプタのように繋ぐ中からことばが生まれ、それを書いている。
スピーカーごと震える爆音の音楽、先達の様々な表現物たち、さらに大昔の人々の彫りつけた文字や土器の紋様、テレビから流れるニュース、早朝の露光る青稲、澄み渡る冷気に差し込む白い光、祖父や祖母のこれまでの時間が刻まれた皺、規格から外れ収穫されずに転がるミカン、打ち棄てられた電球、吹き上がる風、、、
何かが何かの作用を受け、それによって変化する。あるいは誘発する。それは万物がそうで、人の心の働きもまたその1つだと思う。そしてそれらはいつかは消え去ってしまう。

そこにはぼんやりとした寂しさがある。それは同時に今確かに在るということを際立たせるが、ときとしてそのぼんやりとしたものに圧倒感を感じることもある。
それでもやはりそれに押し流されそうになりつつも、自分の仕事をしたいと思う。
自らの目で、耳で、皮膚で感じ取ったものをノートに書きつける。

MELT / PENETRATE / OVERLAP / EXPLOSION / SUBLIME / SCATTER、and、、、
溶けたり突き破ったり、また重なり、爆ぜ、昇華し、散りゆき、そして、、、

それらは自己完結せず、絶えずその外にあるものと作用し合う中に在る。
それぞれのモチーフは常に他のモチーフからの影響にさらされる。そしてそれは閉じようとしてもそうはならない。

最終的にどうなるのか予想もつかない。

それでもその毎日の中での気づきを残し続けていきたいと思っている。

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6/27 雑感2

非文字による書表現とは何だったのか。50s 60sのアクションペインティングとの合流。それに呼応しながらもほとんど世界的な評価を得ることができなかった前衛書道。言語を捨て、筆墨からなる自由な表現は、素材の違いというだけでは確固たる地位を築くことは難しかったのかもしれない。しかし、書という文脈の可能性を拡げたという視点から見ると、それは「言葉にならない言葉」を書いていたという事と見ることはできないのか。そしてそれは、苦しい時代を経験し、新しい時代を拓こうとした世代のメンタリティを想像すれば、「とても言葉にならぬ思いが溢れ出てくる」という表現との合致は必然性を感じずにはいられない。それは書の歴史にとって必要なことだった。そして、意味をそこに見出す時、時間を隔てたとしても、誰かがその意志を受け止めたということだ。

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6/27雑感

自分の肌になじむ音楽を聴いていると、映像というか、閃光というか、自在な線描のようなものが見えることがある。音が視覚に結びつく様というのは、音声言語が文字を誘発する原点に立っているような感覚を呼び起こす。それはどこか懐かしいような感覚で、おそらく遠い昔の人々や幼かった頃の自分と、今ここにいる自分が繋がったような嬉しさを感じるのだ。

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はみ出たまんま


文字を覚えるというのは思えば不思議なことだ。

線と点が組み合わさったもの一つ一つに規則性があり、それが音を成し、意味を成し、言葉をそこに表してている。
子供の頃の記憶を辿ってみると、口からこぼれる言葉をそこに書けたという体験は、「なんかコレはすごいことを知ってしまった」というエキサイティングな思いとともに残っている。
そして漢字というのもまた不思議な文字体系で、一つ一つのマークが、言葉の意味を代弁している。そのマーク一つを見て、その人の引き出しにしまってある記憶なり、映像なりが、瞬間瞬間に現れる。

これは思うにすごいことだ。
手書き文字というのは、個人差があり、東洋ではその個人個人から紡ぎ出される文字の個体差を愛で、楽しむという文化がある。
しかし、いま生きている日常で考えてみる。文章が書かれた紙を手渡され、一字だけを抽出して眺め続けるということは当たり前に暮らしている中では普通しないないことだ。
文章の中に用いられている文字たちは、一定水準を守ってその文字だと理解でき、マークとしての役割を果たしていればそれで良いのだ。
個体差があろうが知りたいのはそこに書かれた意味内容であり、上手かろうが下手かろうが、個性があろうがなかろうが、「だいたいおなじ」なのだ。

その結果が活字隆盛の現代の状況だろう。
そうした合理化が進み、手書きをされることもなくなった現代、機械的に打ち込まれるだけの時代の中でも、漢字は健気に自分に与えられたルールを守り、意味を表すための自分の役割を全うしているのだ。
これはもともと一字にストーリーと意味と図象を持った漢字であるが故に特に顕著なのかもしれないが、アルファベットであっても他の文化圏の文字であっても近しい状況だろう。
規定の枠内に収まっておけば良いという状況の中に自分もそのひとりとして順応している。(いや、出来てないかもしれない。)それも一つの現実だ。

だけど、思うに自分たちがやっているアホらしいことというのは、別解の提示でもある。

一連の作品はある意味、「言葉の反乱」と言ったら大袈裟だけど、はみ出てしまったまんま歩き続けた結果だ。

たとえそれにバツがつけられたとしても、はみ出たまんま勝手にやり続ければ良い。

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近況

モスクワでの展覧会も5/20よりスタートしました。
立て続けに舞い込んだグループ展での試み。
今回のCalligraffiti3連発での個人テーマはアルファベットシリーズが始まってからの代表的なモチーフを三都市で同時に展示してみようという試み。

構築的なビジュアルのSEWAGE Treatment Facilityからアルファベットシリーズが始まり、

回転主体のアクションが前に出つつも自分の表記の仕方を広げることに成功したenginecyclone、

漢字とアルファベットがcall & responseするMIMESIS。

それらが複合、融合して行ったのは自然発生的なことだったけど、作品観を深める上でも意義のあることだったと思う。
そして更にその先を拓くために、作品について考える過程で生まれた最新作の複合大作・中品に加えてエスキスタイプ(約20枚)をロシアへ、 

中型タイプでも大作に見劣りしないものを目指した単体モチーフの最新作を6月の天作会へ。
舞い込んだグループ展の連続で、それぞれに何を展示するかとプランを考えることはとても勉強になった。

書の最大の武器は鉛筆一本、ノート一冊からでも始められること。それはどんな環境下でも誰でも自分の可能性を追究出来るチャンスがあるということ。
作る中で積み重ねたことが、また次の一歩を拓く力になる。

確かに成長できているか?振り返ったらすぐさまその先へ踏み出せ。

出来たと思っても、その次にはまだ全然これ以上のものが見たいと思う。

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展示ラッシュ

海外展3つを含む5つの展示の準備が終わり、内4つはすでにスタートしてます。お知らせが遅くなってすみません。内2つは、あらかたセレクトした新作からまたひっくり返して最新作ぶち込んだのでキツかった。

結局5つの内2つは昨年の作品を出すことになったけど。表装や発送のお金もバカにならない。

まだまだ実力が足りてないんだ。それに尽きる。
けど、作品に対する考えにも進展があったし、そこからまた新しいスタイルの作品やアイディアも出る収穫もあった。これは他の作家さんと話したところから示唆を受けたことも凄く大きい。

「人間は一人では成長できない」「人間は孤独なもの」そのどちらでもあるよね。
全部全部ブッ込んで作品を生み出す。無理しない自然体も良いかもしれないけど、自然体こそが全てだとも思わないし、俺にはよくわからないけど、「クソッタレ。絶対こっからひっくり返してやる」っていうところから生まれてくる馬鹿パワーは絶対必要だと思う。
滲み出るタイプの作家さんって良いなと思う。

これは性質の問題、なれないものはなれない。もとから持ってるものを活かすだけ。

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