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はみ出たまんま


文字を覚えるというのは思えば不思議なことだ。

線と点が組み合わさったもの一つ一つに規則性があり、それが音を成し、意味を成し、言葉をそこに表してている。
子供の頃の記憶を辿ってみると、口からこぼれる言葉をそこに書けたという体験は、「なんかコレはすごいことを知ってしまった」というエキサイティングな思いとともに残っている。
そして漢字というのもまた不思議な文字体系で、一つ一つのマークが、言葉の意味を代弁している。そのマーク一つを見て、その人の引き出しにしまってある記憶なり、映像なりが、瞬間瞬間に現れる。

これは思うにすごいことだ。
手書き文字というのは、個人差があり、東洋ではその個人個人から紡ぎ出される文字の個体差を愛で、楽しむという文化がある。
しかし、いま生きている日常で考えてみる。文章が書かれた紙を手渡され、一字だけを抽出して眺め続けるということは当たり前に暮らしている中では普通しないないことだ。
文章の中に用いられている文字たちは、一定水準を守ってその文字だと理解でき、マークとしての役割を果たしていればそれで良いのだ。
個体差があろうが知りたいのはそこに書かれた意味内容であり、上手かろうが下手かろうが、個性があろうがなかろうが、「だいたいおなじ」なのだ。

その結果が活字隆盛の現代の状況だろう。
そうした合理化が進み、手書きをされることもなくなった現代、機械的に打ち込まれるだけの時代の中でも、漢字は健気に自分に与えられたルールを守り、意味を表すための自分の役割を全うしているのだ。
これはもともと一字にストーリーと意味と図象を持った漢字であるが故に特に顕著なのかもしれないが、アルファベットであっても他の文化圏の文字であっても近しい状況だろう。
規定の枠内に収まっておけば良いという状況の中に自分もそのひとりとして順応している。(いや、出来てないかもしれない。)それも一つの現実だ。

だけど、思うに自分たちがやっているアホらしいことというのは、別解の提示でもある。

一連の作品はある意味、「言葉の反乱」と言ったら大袈裟だけど、はみ出てしまったまんま歩き続けた結果だ。

たとえそれにバツがつけられたとしても、はみ出たまんま勝手にやり続ければ良い。

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近況

モスクワでの展覧会も5/20よりスタートしました。
立て続けに舞い込んだグループ展での試み。
今回のCalligraffiti3連発での個人テーマはアルファベットシリーズが始まってからの代表的なモチーフを三都市で同時に展示してみようという試み。

構築的なビジュアルのSEWAGE Treatment Facilityからアルファベットシリーズが始まり、

回転主体のアクションが前に出つつも自分の表記の仕方を広げることに成功したenginecyclone、

漢字とアルファベットがcall & responseするMIMESIS。

それらが複合、融合して行ったのは自然発生的なことだったけど、作品観を深める上でも意義のあることだったと思う。
そして更にその先を拓くために、作品について考える過程で生まれた最新作の複合大作・中品に加えてエスキスタイプ(約20枚)をロシアへ、 

中型タイプでも大作に見劣りしないものを目指した単体モチーフの最新作を6月の天作会へ。
舞い込んだグループ展の連続で、それぞれに何を展示するかとプランを考えることはとても勉強になった。

書の最大の武器は鉛筆一本、ノート一冊からでも始められること。それはどんな環境下でも誰でも自分の可能性を追究出来るチャンスがあるということ。
作る中で積み重ねたことが、また次の一歩を拓く力になる。

確かに成長できているか?振り返ったらすぐさまその先へ踏み出せ。

出来たと思っても、その次にはまだ全然これ以上のものが見たいと思う。

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展示ラッシュ

海外展3つを含む5つの展示の準備が終わり、内4つはすでにスタートしてます。お知らせが遅くなってすみません。内2つは、あらかたセレクトした新作からまたひっくり返して最新作ぶち込んだのでキツかった。

結局5つの内2つは昨年の作品を出すことになったけど。表装や発送のお金もバカにならない。

まだまだ実力が足りてないんだ。それに尽きる。
けど、作品に対する考えにも進展があったし、そこからまた新しいスタイルの作品やアイディアも出る収穫もあった。これは他の作家さんと話したところから示唆を受けたことも凄く大きい。

「人間は一人では成長できない」「人間は孤独なもの」そのどちらでもあるよね。
全部全部ブッ込んで作品を生み出す。無理しない自然体も良いかもしれないけど、自然体こそが全てだとも思わないし、俺にはよくわからないけど、「クソッタレ。絶対こっからひっくり返してやる」っていうところから生まれてくる馬鹿パワーは絶対必要だと思う。
滲み出るタイプの作家さんって良いなと思う。

これは性質の問題、なれないものはなれない。もとから持ってるものを活かすだけ。

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山本 尚志 スピーチバルーン

書道って今でこそいろんなあり方があって良いんだという流れになってるけど、中国での起源を見れば自己表現なんかじゃなくて、生活の根っこに関わる儀式だった。それは統治者の力を示す役割も備えた。そうしたものだから立派な姿をしていないといけないし、造形としての美しさと品格が求められた。

時代が流れ表現力や個性が賞賛されるようになっても、元々の成り立ちがあるので、正統の踏襲と自己の発露は一定の枠内でお互いにブレーキを掛け合っていたようにも見える。
そこをスコーンと突き破ったのが井上有一だった。彼の晩年の作品の一節に「本来無法」という言葉がある。「もともとルールなんてない」ということだ。
僕は学生の頃井上有一作品に出会いものすごく感動した。その頃はなぜ心打ち震えるのかうまく言葉にできなかった。今なら分かる。書道という歴史が背負ってきた「品格」を放棄しなければ生まれない「品格」を見たから。

だって、普通なら品がないって言われるのって恥ずかしいことだから。
山本さんとは2年前、facebook上で自分を見つけてくれて、知り合った。すぐに意気投合して、毎日のように議論した。
何が一番嬉しかったって、井上有一の詩「おお、峻烈の風よ吹け。書に命を賭けるものよ、勇気と誇りとを持って偉大な書の歴史を創ろう。」

これに本当に応えようとしている人と出会えたこと。
思うに、山本さんもまた周囲の無理解を受け入れ、突き通した人なのだ。

特に最近の山本さんの作品には丸腰の品格を見る思いがする。
って、真面目かい 作品自体はポップでキュートですよ 笑

ぜひ!
「山本尚志展 Speech Balloon」

ギャラリーNOWにて、5月14日(日)から5月27日(土)まで。

 

山本尚志

展覧会概要

展覧会名 : 山本尚志展 Speech balloon

会期 : 2017年5月14日(日) − 5月27日(土)

作家在廊日 : 2017年4月14日(日)

開廊時間 : 10:00−18:00

休廊日 : 月曜

後援 : 北日本新聞社 協力 : ユミコチバアソシエイツ

会場 : ギャラリーNOW 〒930-0944 富山県富山市開85

トークイベント :「セリフを書く」5月14日(日)14時より(作家本人による公開制作と現在の書道を取り巻く状況について語っていただきます)入場無料

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パンクが教えてくれたこと

日常の出来事の中にはポジティブなこともネガティヴなことも色んなとこがあるけど、「これって何て言ったらいいんだろう」ということがある。

自分が「言葉を書く」ことを表現として選んでいるのには、その逆にある「言葉に出来ないもの」とか、「それに対してどうしたらいいんだろう」というものの存在がある。それを自分なりに言葉にして書き留めたいという思いが出発点になっている。

今自分の作品は主に英単語をモチーフとして書いている。それは通常の筆記の仕方と違い、書いていく言葉のアルファベットがぶつかり折り重なることで「言葉の塊」のような形態をしている。
最初は英詞のロックを聴いていた時にふと「英語で書いたらどうなるだろう?」と思ったのがきっかけだった。

最初の英語のモチーフは学生だった頃に行ったパフォーマンスに付けたタイトル「終末処理場」を英語に変換した「SEWAGE Treatment Facility」という言葉だった。

作業場に紙を広げて書いてみると、そこに現れたのは、まさしく上に書いたような「言葉の塊」としての言葉の姿だった。「なんだかわからないけど、コレは今まで自分が作ってきたものとは違う。」という感覚があった。

それからそのスタイルの作品が少しずつ増えていき、今ではそれが自分の制作スタイルになっている。でも果たしてそれがなんなのか?自分でもうまく説明ができない。

よく言われるのは「抽象のドローイングやアクションペインティングと何が違うのか?」という質問だ。

たしかに、何かを見聞きして感じた自己の感覚を表現するのであれば、言葉も記号もいらない。
抽象表現主義の時代の人たちもきっと同じで、言葉にならないものをドローイングや、絵の具のストロークや飛沫に託していたのだろう。
僕が言葉を用いるのは、モチーフの元になるモノや出来事をスルーできない、あるいはどうにか書き留めたいからで、それらに対する自分なりの「リアクション」としての言葉なのだと思う。

「どうしたらいい?」「この感覚はなんて言ったら良いんだ?」ー「こういうことじゃないか?」その思考の過程で自分が書く言葉は生まれてくる。
だけど、一方ではその言葉のフレームに全てが体裁よく収まりきらないというジレンマも感じている。

「どう言葉にしたらいいかわからないもの」と「どうにか自分なりに考えてリアクションする」ということ。

その二つの狭間に生まれる言葉の姿を、視覚化しようとしているのが自分の作品なのだろうか?
最近改めてそうした事を考えながら、あるバンドの音楽を聴いていた時に一つのインスピレーションを得た。
彼らはいわゆるハードコアパンクといわれる音楽で、激しいサウンドとともにボーカルが叫ぶように歌う、エモーションが前面に出るタイプの音楽をやっている。

彼らもまた、日常で感じた様々なことを歌詞の中に詰め込んでいるのだ。そこで思ったのは、「彼らもそうした感覚を言語化することと出来ないことの葛藤を感じているのではないか?」ということで、「少なくとも自らのうちにあるものを言葉だけでは言い尽くすことができないからこそ、彼らはそこに楽器を鳴らしあるいは叫び、そこに何かを表現しようとしているのではないだろうか?」と思った。

そして重要なのは、その彼らの音楽は歌詞というメッセージとしての一つの方向性を持っていながらも、言葉というフレームを突き抜けた巨大なエネルギーの塊になったものとして僕に訴えかけてくるということなのだ。音を乗り越え、言葉を乗り越えたなんだかよくわからないものなのだ。

思うに抽象絵画と書の違いはそこにあって、抽象絵画は純粋な色彩のコンビネーション、あるいは感覚や感情の発露。アクションの痕跡という点では書の要素と共通するところもある。

僕は篠原有司男や白髪一雄、あるいはサイトゥオンブリといったアクションペインティングやドローイングも好きだ。そうした、まったくフリーでGOな無目的なエネルギーの放出も素晴らしい。
でも、思うに僕がそれ以上に胸打たれるものは、やっぱりボーカルのいるパンクバンドで、楽器がガシャガシャ鳴っている中で何かをうわーっと思いっきり言っているボーカルの、なんだか得体の知れない凄みなのだ。それは馬鹿に徹して、全力で歌詞を叫ぶことで言葉のフレームを打ち破って飛び出してくる生身の人間の丸出しの凄みなのだと思う。
そうしたパンクバンドのボーカルと同じで、1つの行為に徹することを可能にしているのが僕にとっての「言葉」の存在であり、それを書きつけるということなのだと思う。

 「言葉のフレームを突き抜けたところに生まれる言葉の姿。」僕が見たいものはそういうものなのではないか。
自分が何かを感じ、そこに対してこう思った。でもそれはキレイにフレームに収まらなくて、それがフレームを突き抜けて現れた時にどのような姿を持つのか?
それを見たくて今日も書いているのだと思う。

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言葉の姿


作品について考える時、言葉は生き物であるということを忘れないようにしないといけない。それぞれの言葉にはそれぞれに適した姿形がある。

過去に作った作品の成功体験に囚われすぎると、次に作る新しいモチーフは自在さや新鮮さを失ってしまうだろう。
具体的に言えば、過去の作品の表面的な姿に近づけようとすると、たちまち不自然な形になってしまうのだ。

だから、新しいモチーフについて構想する時はその言葉に問いかけてみる。「あなたはどんな姿形をしているのか?」と。

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そういう中から

それまで拠り所になっていたものをどうにか延命させて来れてたのが、いよいよもってこりゃどうにもならんな、みたいな分かれ道に来たところで、どーする?

そういう中で活路を見出すのは簡単じゃないのかもしれないけど、そこでどうにかしないことにはどうにもならないわけで、やはりどうにかするしかない。

そういう中から生まれてくるのだ。

行くぞ。前も後ろもカンケーない。

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