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MELT LANGUAGE

かつて先人たちは自らの意志や思考や感情を、どうにかして表現する手法を生み出した。

もともと自らの身体に備わっていた音声によるもの。またその音声言語を視覚に起こす記号や文字といった文字言語。

インターネットによる技術革新は国境線を溶かし、文化の混淆、融合は加速度を増す。

そんな世の中で重要なことは、先人から学ぶこと。かつての人々がその場所で何を感じ何を考え、何を残したか。

そして私たちはここから何を生み出すのか。

先人達から学びつつも、生み出されるものは「今ここに生きている私たちが、何を感じ何を考えているか?」というところから生まれたものだ。

自分たちの今のリアルは、きっと固有性よりも、流動性の中から生まれ出てくるものだと思っている。流動していくものの中で何を見出すのか。そしてそれはこの流動する世の中でありながら、砦となり、そこに確かに立ち得るものか?

技術革新の恩恵を受けながら暮らすわたしは、一方で身体から文字や言葉や感情が乖離していき、拠り所のなさを感じることがある。

その気づきこそが重要で、それは大切にしなければならない。

芸術家はそうした時代の空気を感じ取りながらも、それとは違う行動をとるところにその役割があると思っている。

なぜなら、一つの潮流(ムーブメント)が世の中をことごとく一色に染めてしまうことほど恐ろしいことはないからだ。

多様性が失われるということは、それぞれが秘めたいく通りもあるはずの可能性の否定を意味するからだ。

多様性が大事と言われるが、それは題目ではなく、生命の重要な問題だ。

書に関してはこれからの世の中においてその必要性は必ず再検討されるだろう。

それは思考の原点には言葉が常に寄り添い、それを生身の身体によって書く行為に人間の叡智と本能の原点を見るからだ。
わたしは試みる。

「ことば」を媒介にして、 音と文字と、 身体(視覚や聴覚や触覚)と、行為(記すこと、打ち込むこと、動くこと、思考すること)を再度結ぶことを。

境界が溶ける世の中に生きて、そこからまだ見ぬものを生み出すために。

メルトランゲージ

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余白について

画像  昨年の夏頃のメモ

モチーフとなった言葉を振り返ってみると、無意識のうちにしていたことは、もしかしたら「言い切ること」ではなく、「余白を残す」ということだったのかもしれない。

それは画面上の余白ではなく、そこから想像する余地を残しておくということ。

言っても言っても言い尽くせないから、そうとでも言っておくしかない。

でもそのことによって、思考が停止することを防ぎ、継続した追求を可能にしているのかもしれない。

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FROM “SEWAGE Treatment Facility”


これができたときに、これまで考えたり、書いたりしてきたものを凝縮した作品ができたという手応えがあった。

井上有一が自分の個性をそのまま出すことの重要性に気づいた「自我偈」や、様々な試行錯誤を経て漢字に回帰した「愚徹」を生み出したときに感じたであろう確かな手応えとか実感。(制作者の精神的な充実や、その後のモチベーションにおいて最も大事なのは「実感」だと思っている。)

それが書き手の内面の発露としてもモチーフとしても、ビジュアルとしても、ギュッと結晶している作品。

振り返ってみて、試行錯誤を続けていれば、必ずそうしたその後の歩みのターニングポイントにあたる作品が生まれてくる。これは誰しもそういう可能性を持っている。

自分も続けていくうちにそうした作品が時々あって、それは往々にして、もう自分には全く才能がないんじゃないかとか、あがいてもあがいても全く先が見えそうにない、そんな行き詰まりの臨界の先に出てくる。必ずと言ってもいい。

だからもう最近は、しばらく全然素晴らしい作品ができなかったり、面白いアイディアが出てこなかったりしても、ほとんどうろたえることはない。

行き詰まるのは、それまでのレベルでは満足できない自分になってしまったからであって、行き詰まるということ自体が、既にその先に何か新しいものが生まれる予兆なのだと思っている。
このSEWAGE Treatment Facilityも、自分にとって物凄く重要な作品だ。   それまでの自分のスタイルが、新たな形式として進化して現れたからというのもあるが、大事なのはそこに確かな実感を伴って現れた作品だからだ。
その後の作品は、どれもこのSEWAGE Treatment Facilityという作品が内包する、スタイル、ものごとの捉え方が土台としてあって、そこから連想したり、融合したり、飛躍して生まれた派生的な作品である。

終末処理場というのは僕にとっては、生活の中で汚れたり、痛んだり、役割を終えたものが最後に行き着く場所であり、

それがその場所の機能によって、再び外の世界へ還元される場所なのだ。

そうした言葉が持つ有機的な性質に気づかせ、その後の様々な作品のイマジネーションの源泉としてこの作品が生まれたことは、僕にとってとても意義のあることだと思っている。

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表現と感受


今年の年明けにマジックペンと普通紙に書いたもの。

一昨年くらいから少しずつ出会いが増え、多くの示唆を受けて、作品についても思索が深まってきている手応えがある。

日々感受することが表現に生きてくる。

それは確かにあるのだけれど、感受と表現の間で「考える」ことの大切さを思う。

作品というのは外部からのコピーアンドペーストではない。

同じものでも、人の数だけ感じ方も違うし、その人の中でどう熟成され、また発酵して、その後に影響してくるのか。

それは自分なりに思考するしかない。

そしてそこには時間が必要だ。

決して焦らず、それでいて確かな手応えを持って。

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Visualized Talking Voices (2016)

昨日考えていたことを朝からまた考えてた。
昨年自分は一旦漢字で書くことをやめた。それはふとしたインスピレーションからだったけれど、一つは漢字の最大の特徴である「象徴性」を押し出すことに限界を感じていたからかもしれない。
その引き換えに選んだのは「音」を表すアルファベット。

そのことによってそれ以前に増して、言葉の「語感」をセレクトの基準の一つとして重視した。

言葉に出してみて馴染むか、馴染まないか。何度も言いたくなる言葉を書くことにしている。
そうして、書いていくうちに得たのは文字化する以前の「発話」「発音」という原始的な身体行為に立ち返る感覚だった。自分の体の中から言葉が外の世界に飛び出す感覚が楽しかった。
「発話するように書く行為」。アルファベットが全部ぶつかって飛び出してくる理由はそこにあったのだったのだと、今になって腑に落ちた。
それは、そもそも言葉とは、生きた人間から出てくる生き物そのものだという感覚から来ている。
言葉というのは「ゆれ」を持っているし自在な形をしているけれど、同時にそこには一つの存在として「姿」を持っているということ。
漢字から遠く離れて、アルファベットシリーズで得たものをもって、漢字に通じる「語」としての姿を持ったものに立ち返った。
でもそこには、漢字のような象徴的な意味性はない。
言葉が自在な姿で勝手に存在しているだけだ。

そうした身体全体から生まれてくるものをこれからも生み出していきたい。

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くっついたり、混ざったり、溶けたり、伸びたり縮んだりstatement2017.1.21

「言葉だけでは表現出来ない思いを筆跡に託して書く」というのが、芸術としての書のこれまでのオーソドックスな形だったように思う。

それはいわゆる「書きぶり」というもので、たとえばその言葉を、力強く書いたり、穏やかに書いたりして言葉のイメージを引き立てるように表現する方法だ。

以前は自分自身もそうした手法を踏襲しながらやっていた。

しかしそれでもなお、言葉で言い尽くせない思いやその思考過程が、言葉にすることによって零れ落ちてしまうような感覚があって、それは「書きぶり」を工夫するだけではダメなんじゃないか?と思うようになってきた。

そこで着目したのが、そもそも、その表現の元になる言葉自体がもっと思考の過程が残るような自在な構造をもったものであって良いのではないかということだ。

それはコンセプトが先にあったわけではなく、これまで書いてきた言葉について考える中で、言葉の横にメモを書き込んでいた時に気付いたことだった。

僕はいつもノートにモチーフの言葉を書き付けるのだが、それに関することを書き足したり、線で結んだりしていく行為の中で、自然と連想が起こったり、言葉が組み合わさったりする。

そうしてそれらの言葉は定型から逸脱し、実用性を失いつつ、そこに新たなイマジネーションを喚起する姿として現れた。

文字言語とは、そうした具合で実は決まり切った四角四面のものではなく、音声言語と同様に、発する者のイマジネーションと深く結びつき、絡み合いながら現れてくるものであると思っている。そのようなとらわれから脱したみずみずしい言葉の姿を生き生きと映し出すことが、自分の仕事だと思っている。

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statement2017.1

「なんと言ったら良いか分からないものを、どうしたら良いのか?」

そうしたうまく表現できない思いを巡らす。その過程で、生まれてくるのが言葉の存在だと思う。

人間の思考というのは初めから完成された姿を持っているわけではなく、一つ一つの断片から始まり、それが少しずつ形を成していくものではないだろうか。
その手掛かりをもとにして、思考を促す作用を言葉は持っている。

それは使い方によっては不確定なものを明確にする力を持っている。さらにそれだけではなく、言語化出来ずにさまよっている思考の過程を一時的に留めておく機能も持っているのではないだろうか。
言葉は、思考に輪郭を与え、方向付けをする力を持っている。しかし一方で、線引きをすることで、限定的な意味だけに囚われると、それによってこぼれ落ちてしまうものもあるように思う。

こぼれ落ちてしまうものの中に実は必要なものもある。そうした言葉をめぐる葛藤は誰しもが感じたことがあるのではないだろうか。

言葉とそれを発する人という関係性について繰り返し考え、実践として言葉を書き続けている。

その中で、一つ一つの言葉は実に有機的な生き物であり、個人の中で混沌としているうまく言い切れない思いをも受け止める包容力を持っているということを実感するようになった。

その言葉を拠り所として、それが不完全だとしても思いの一端を個人の内部から、外の世界へ取り出すことができる。

その機能性に確かな手応えを感じたことが自分にとって重要なターニングポイントだったと思う。
僕は日常の中での様々な思いを言葉にし、紙に書くことで、姿を与えたいと思っている。

そうした願いは、整然とした理由に先立つ、人間の根源的な願いとしてあるものだと思う。

ことばは、それを発する者の中で繰り返される反芻によって形を成し、変容し、時には解きほぐされ、また再び生成される。

そうした一つ一つの言葉が、それぞれの個人の中において無数に存在し、内なる宇宙を成している。
それぞれの思いから言葉たちは生まれ、互いに呼応し、結合し、混ざり合う中で、ユニークな主張を始める。

それを逃さないように日々ノートに書き付けていく。

書き付けていく中でも自在に姿を変え、さあ書いてくれと言わんばかりに言葉が喋り出す。

自分の仕事はそれを全身で生き生きと出現させることだろう。

その言葉が生まれてくるまでには、日常の様々なものが去来する。

そうした言葉にならないものを言葉の力によって表現することで生まれたものが、また自分自身に様々な気づきを還元してくれる。

それらの生き生きとした姿が、また1日1日を歩んでいく背中を押してくれもする。

———

僕がそうした言語と文字の姿の相互作用について考えるようになったのは

アルファベットを素材として書いてみようと思って始めたアルファベットシリーズに始まる。

英語で筆記しようと思ったら、英単語が漢字のように一つの「語」としての塊感を持ったものが出てきた。



そこから発展的に生まれた

漢字と英単語が呼応し合うもの(MIMESIS)や、


言葉が他の言葉と合体するもの(NANIGADERUKANA?)、


さらには元の姿をとどめない程に溶け合ったもの(MELT LANGUAGE)


など様々だ。

それらはどれも、いまや記号と化してしまった文字たちが本来の機能性を離れ、自在な姿をしている。

現代において、手で書くということはすっかり社会の隅に追われつつある。

そうした時代の中で、たとえ何の役に立たないとしても、生きた人間の生きた思いや思考を、思う存分に生き生きと映し出したい。そう願って日々制作に打ち込んでいる。

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