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ペーパービート

ちょっとまだ自分でもよくわかっていない発想。作品化も出来てない。

昨年末ごろから書いてるSPURIOUSという作品あたりからふわっと感じてた、書道という分野で、なんとなく行われていることの中に眠ってる可能性について。

これは日常車の中で音楽を聴く体験から着想。
言語とは違う回路で、何かを理解する、というのはよくあることで、それはある意味、人間の生活の中に言語が登場する以前に帰るというか。

とはいっても実際には帰れない。だから、文字と、文字に着地しないものと、両方からなる何かをやるってことが、2018年現在に生きて、書道でなんかやるってことなのかなって思ってる。

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「飛沫考」

僕の作品には墨の飛沫が沢山出てくる。そこにはアクションペインティングや前衛書道の影響は勿論ある。だけど、それは近代芸術の特許ではないと僕は思う。

平安時代に書かれた空海の崔子玉座右之銘にも見られるように、墨が人から離れて散って紙の上に現れたものに何らかの感興を覚えるというのは近代とか現代とかの枠を超えた超時代的なものを感じる。

有一は飛沫はあくまで自然発生的に起こる筆の動いた跡の一部と言ったが、僕は別に故意にやっても良いと思う。アホみたいに飛沫バンバンやりたいならそれはそれでやれば良いんじゃないかと思う。
最近ふと思ったのが、当然のことだが飛沫というのは故意であれ自然であれ、物理なのであって、それは見方を変えれば人の身体を介して墨が遊んでいるように思う。

遊んでいるのは墨の方、あるいは墨と人の掛け合いによる遊びと考えた方が、より作品世界に広がりを持ってくるような気がする。

何というか、個の内にクローズしていくのではなく、作品というのは個人の把握を超えたところにあって、それをまた見て考えて、と常に応答的に進んでいくように思う。
ーーー

それは、ことばに関しても同じようなことを思う。最近人の思考というのはその人がするものではあるけれど、思考というのは想像や閃きが絡んでいくことで、創造的なものが生まれる。

何というか自分という個人は容れ物であって、そこに言葉やら日常の断片やらそういうものが入ってきて遊んでいる、そんな感じがする。それらが勝手に遊びだす、それを閃きと言い、それに「ほう、それって?それからどうなるんやろ?」と尋ねるのが思考というのかもしれない。遊ぶものと尋ねるものそれらは相互作用を起こす。

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残す作業

今日の仕事やり終えた。どうしてもこの休みのうちにまとめておきたかったから、形になってよかった。

やはり、作ることだけではなく、残すための作業の大切さ。

一人でやるには限界はある。

でも、できる範囲で重要なところは抑えておきたい。作品にしても文章にしても。

それでね、絶対にこれは自分にしかできないという自負はある。

まだまだだけど、それでもここまでやってきた蓄積は必ず重要な仕事として残る。それを信じてやり続けるしかない。

明日からもまた頑張るぜ。

ではZZZ

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発見の蓄積は一線を画す


小さな発見を重ね続けていけば必ずどこかでそれまでと一線を画する瞬間が来るという考え方を信じていて、それを持ってまた次に進むの繰り返し。

個人的な「これまで」のさきに、歴史として見た「これまで」を見据えて、あくまで個人的な生活から書というものの核心に迫りたい。

核心に向かう切り口は必ず個人の実感の中にある。それはこれまでにあったはずなのにやっぱりどこにもなかった、そこに初めて生まれる新鮮さだ。

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昨日問うて気づいたことを、今日もまた問うてみること

書くということについて考えていると、どこかで先人の似たような考えにぶつかる。

それはいけないことなのかというと、そんなことはなくて、どこかから拝借してきたコピペではなく、ちゃんと自分の続けたことの中から出て来たという実感が伴っていることが重要であり、それは前向きに捉えて良いことだと思う。

大切なのはそこからまた自分の歩みを続けていくことで、それは必ず最終的にはその人にしか歩めなかった道のりになっているはずだ。

毎回同じようなことを書いてるかもしれないが、それでも日々小さな気づきがあり、書き残す。

◎書くということについて

私たちを書くという行為に向けさせるもの
日々暮らす中で何かに出会い、何かを感じる。

そうしたなかに自分にとって大切な何かがあり、

それについて考えるなかで気付く、ということがある。

その気づきを残したいから書く。
自分にとって大切なことを留めるということが書くということの原点である。
◎自分の意志によって運用することと、意志や意図が及ばないところを受容すること

自分の制御の利く範囲内でやるということと、自分の制御の外のものに目を向けること。

それは自分の意志や力が及ばない部分を自覚しながらも、その中で、その時点での自分の考えを見失わずに機能させ続けていくこと。また、そこに自分の活路を見出すこと。その間で問うことは無意味ではない。

◎記録することの機能

自分にとって大切なことを書いている。

あるいは、いまの段階では分からないものを一時的に保存しておくために書く。そこに、きっと自分にとって必要なものがある。

それはその対象が流れていかないように残すためであったり、忘れ去ってしまわないように保存し、ふたたび取り出すために行われる。
◎効果(エフェクト)を取り入れることについて

エフェクトを何かを表す上で採用する場合、それを採用するという制作者の意図が働く。それは言語では埋められないところを援助するための非言語だ。

エフェクトは留めたいと思うものの中にあるイマジネーションの質感の部分を補う。
そうしたことは、絵画であれば違和感なく起こることなのかもしれないが、本来文字言語を扱う書道においては、ことばの質感を文字ではない部分で補うことについては一考が必要だろう。

その点において、繰り返し繰り返しそのエフェクトを採用するということ、または改良を加えながら作品に応じて複数のエフェクトを選択しているということは、その非文字言語の質感の中に一種の言語性(意味性)が含まれていると言える。

既存の言語に落とし込むことによって、言語化する前の段階のものが損なわれる場合、それを言語化しないままにしておくという選択をしても良いのではないか。
言語と非言語の境界を隔て、その違いを明瞭にしていくことにも意味があるだろう。しかし、自分が感じているものや思考を紙の上に表すのところに主眼があるのであれば、その都度その都度、より適切と思う選択をすれば良いと思う。

それはその都度自分が感じている対象について問うことでもある。それは残すという作業を考えた時に必要なことだと思うし、未分化な部分を自分の中に保存しているということは、悪いことではない。

対象と長く付き合っていく上で理解できない、言語化できない部分を認める態度は大切なことだと思う。

また
率直である=中立とは限らないと思うし、必ずしも率直でなければならないとも思わない。

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思考したものをかたちにする

思考したものを かたちにする
ということは そこに絶えず動いているものをシャッターに収めるということに似ている。
流動的なものに触れる・捉えるという感覚。 それは本来なら触れることができないものに自分の手で確かに触れたという実感を伴う。そこに一つの充足感や安心感のようなものが生まれる。

その充足感や安心感というのは、端的に言えば「確かさ」である。
その確かであるという感覚を呼び起こす時に、物質として姿を持つ作品であったり、その人その人の身体を通して感じられるもの(視覚や聴覚と言った五感)が介在することがやっぱり必要なことのように思う。
ーーー

上を踏まえて、ここでまた考えるのは、「思考する、ということもその人の身体によって行われること」であるということ。

ディスプレイの画面に打ち込み、それを眺め、また打つ。そうして画面上に形を成していく。
(先日の投稿「ほんとうが現前する」を受けての続き)

先日の投稿にまた穴を開けて風を通すようなことだと思うが、こうした活字を使った作業というのも、その過程を考えると、実は「予め明瞭なもの」ではないと気付いた。

デジタル画面上の活字は手書きとは違って、書いた後にまた完全に消し去ることが出来る。そこに現れては消え、そこにまた続きが加わるという流動性があり、そうした過程を繰り返しながら、前を受けたものがその後に連なっていく。
明確な白と黒として目に見えるものと、画面上には残らない過程の逡巡や往来。 実は画面上の文章もまた一見確かに見える中に、みえない試行錯誤(形になる前の不確かさ)があったのだと思う。
ではそれをどこで完成とするか?つまり「確かなもの」とし、そしてそれを残すか否かといった決断は、作成者の意志がまずあり、管理者の決断があり、適した保存の技術と運用といった条件が揃って初めて可能になる。
ーーー
話がかなり蛇行したが、 いずれも 不確かさの中にある確かさ、確かなものの中にある不確かさについて考えたことだ。

それは不確かに見えるものからどうやって確かなものを抽出するかであったり、不確かなものを確かなものにしていくことであったり、確かと思われるものを解いていくことでもある。

(加えてもうひとつ書くならば、消せないものについて問うことも大事なんじゃないか。それこそが歴史的なものの見方をする人間にとって大切なことのような気がする。これはまたいずれ)

思うにこうした2つの中に居るという感覚が、自分が「書く」ということを選択したことや、そして自分の作品のスタイルやモチーフに、大きく影響を与えているような気がしている。

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