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山本 尚志 スピーチバルーン

書道って今でこそいろんなあり方があって良いんだという流れになってるけど、中国での起源を見れば自己表現なんかじゃなくて、生活の根っこに関わる儀式だった。それは統治者の力を示す役割も備えた。そうしたものだから立派な姿をしていないといけないし、造形としての美しさと品格が求められた。

時代が流れ表現力や個性が賞賛されるようになっても、元々の成り立ちがあるので、正統の踏襲と自己の発露は一定の枠内でお互いにブレーキを掛け合っていたようにも見える。
そこをスコーンと突き破ったのが井上有一だった。彼の晩年の作品の一節に「本来無法」という言葉がある。「もともとルールなんてない」ということだ。
僕は学生の頃井上有一作品に出会いものすごく感動した。その頃はなぜ心打ち震えるのかうまく言葉にできなかった。今なら分かる。書道という歴史が背負ってきた「品格」を放棄しなければ生まれない「品格」を見たから。

だって、普通なら品がないって言われるのって恥ずかしいことだから。
山本さんとは2年前、facebook上で自分を見つけてくれて、知り合った。すぐに意気投合して、毎日のように議論した。
何が一番嬉しかったって、井上有一の詩「おお、峻烈の風よ吹け。書に命を賭けるものよ、勇気と誇りとを持って偉大な書の歴史を創ろう。」

これに本当に応えようとしている人と出会えたこと。
思うに、山本さんもまた周囲の無理解を受け入れ、突き通した人なのだ。

特に最近の山本さんの作品には丸腰の品格を見る思いがする。
って、真面目かい 作品自体はポップでキュートですよ 笑

ぜひ!
「山本尚志展 Speech Balloon」

ギャラリーNOWにて、5月14日(日)から5月27日(土)まで。

 

山本尚志

展覧会概要

展覧会名 : 山本尚志展 Speech balloon

会期 : 2017年5月14日(日) − 5月27日(土)

作家在廊日 : 2017年4月14日(日)

開廊時間 : 10:00−18:00

休廊日 : 月曜

後援 : 北日本新聞社 協力 : ユミコチバアソシエイツ

会場 : ギャラリーNOW 〒930-0944 富山県富山市開85

トークイベント :「セリフを書く」5月14日(日)14時より(作家本人による公開制作と現在の書道を取り巻く状況について語っていただきます)入場無料

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パンクが教えてくれたこと

日常の出来事の中にはポジティブなこともネガティヴなことも色んなとこがあるけど、「これって何て言ったらいいんだろう」ということがある。

自分が「言葉を書く」ことを表現として選んでいるのには、その逆にある「言葉に出来ないもの」とか、「それに対してどうしたらいいんだろう」というものの存在がある。それを自分なりに言葉にして書き留めたいという思いが出発点になっている。

今自分の作品は主に英単語をモチーフとして書いている。それは通常の筆記の仕方と違い、書いていく言葉のアルファベットがぶつかり折り重なることで「言葉の塊」のような形態をしている。
最初は英詞のロックを聴いていた時にふと「英語で書いたらどうなるだろう?」と思ったのがきっかけだった。

最初の英語のモチーフは学生だった頃に行ったパフォーマンスに付けたタイトル「終末処理場」を英語に変換した「SEWAGE Treatment Facility」という言葉だった。

作業場に紙を広げて書いてみると、そこに現れたのは、まさしく上に書いたような「言葉の塊」としての言葉の姿だった。「なんだかわからないけど、コレは今まで自分が作ってきたものとは違う。」という感覚があった。

それからそのスタイルの作品が少しずつ増えていき、今ではそれが自分の制作スタイルになっている。でも果たしてそれがなんなのか?自分でもうまく説明ができない。

よく言われるのは「抽象のドローイングやアクションペインティングと何が違うのか?」という質問だ。

たしかに、何かを見聞きして感じた自己の感覚を表現するのであれば、言葉も記号もいらない。
抽象表現主義の時代の人たちもきっと同じで、言葉にならないものをドローイングや、絵の具のストロークや飛沫に託していたのだろう。
僕が言葉を用いるのは、モチーフの元になるモノや出来事をスルーできない、あるいはどうにか書き留めたいからで、それらに対する自分なりの「リアクション」としての言葉なのだと思う。

「どうしたらいい?」「この感覚はなんて言ったら良いんだ?」ー「こういうことじゃないか?」その思考の過程で自分が書く言葉は生まれてくる。
だけど、一方ではその言葉のフレームに全てが体裁よく収まりきらないというジレンマも感じている。

「どう言葉にしたらいいかわからないもの」と「どうにか自分なりに考えてリアクションする」ということ。

その二つの狭間に生まれる言葉の姿を、視覚化しようとしているのが自分の作品なのだろうか?
最近改めてそうした事を考えながら、あるバンドの音楽を聴いていた時に一つのインスピレーションを得た。
彼らはいわゆるハードコアパンクといわれる音楽で、激しいサウンドとともにボーカルが叫ぶように歌う、エモーションが前面に出るタイプの音楽をやっている。

彼らもまた、日常で感じた様々なことを歌詞の中に詰め込んでいるのだ。そこで思ったのは、「彼らもそうした感覚を言語化することと出来ないことの葛藤を感じているのではないか?」ということで、「少なくとも自らのうちにあるものを言葉だけでは言い尽くすことができないからこそ、彼らはそこに楽器を鳴らしあるいは叫び、そこに何かを表現しようとしているのではないだろうか?」と思った。

そして重要なのは、その彼らの音楽は歌詞というメッセージとしての一つの方向性を持っていながらも、言葉というフレームを突き抜けた巨大なエネルギーの塊になったものとして僕に訴えかけてくるということなのだ。音を乗り越え、言葉を乗り越えたなんだかよくわからないものなのだ。

思うに抽象絵画と書の違いはそこにあって、抽象絵画は純粋な色彩のコンビネーション、あるいは感覚や感情の発露。アクションの痕跡という点では書の要素と共通するところもある。

僕は篠原有司男や白髪一雄、あるいはサイトゥオンブリといったアクションペインティングやドローイングも好きだ。そうした、まったくフリーでGOな無目的なエネルギーの放出も素晴らしい。
でも、思うに僕がそれ以上に胸打たれるものは、やっぱりボーカルのいるパンクバンドで、楽器がガシャガシャ鳴っている中で何かをうわーっと思いっきり言っているボーカルの、なんだか得体の知れない凄みなのだ。それは馬鹿に徹して、全力で歌詞を叫ぶことで言葉のフレームを打ち破って飛び出してくる生身の人間の丸出しの凄みなのだと思う。
そうしたパンクバンドのボーカルと同じで、1つの行為に徹することを可能にしているのが僕にとっての「言葉」の存在であり、それを書きつけるということなのだと思う。

 「言葉のフレームを突き抜けたところに生まれる言葉の姿。」僕が見たいものはそういうものなのではないか。
自分が何かを感じ、そこに対してこう思った。でもそれはキレイにフレームに収まらなくて、それがフレームを突き抜けて現れた時にどのような姿を持つのか?
それを見たくて今日も書いているのだと思う。

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言葉の姿


作品について考える時、言葉は生き物であるということを忘れないようにしないといけない。それぞれの言葉にはそれぞれに適した姿形がある。

過去に作った作品の成功体験に囚われすぎると、次に作る新しいモチーフは自在さや新鮮さを失ってしまうだろう。
具体的に言えば、過去の作品の表面的な姿に近づけようとすると、たちまち不自然な形になってしまうのだ。

だから、新しいモチーフについて構想する時はその言葉に問いかけてみる。「あなたはどんな姿形をしているのか?」と。

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そういう中から

それまで拠り所になっていたものをどうにか延命させて来れてたのが、いよいよもってこりゃどうにもならんな、みたいな分かれ道に来たところで、どーする?

そういう中で活路を見出すのは簡単じゃないのかもしれないけど、そこでどうにかしないことにはどうにもならないわけで、やはりどうにかするしかない。

そういう中から生まれてくるのだ。

行くぞ。前も後ろもカンケーない。

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MELT LANGUAGE

かつて先人たちは自らの意志や思考や感情を、どうにかして表現する手法を生み出した。

もともと自らの身体に備わっていた音声によるもの。またその音声言語を視覚に起こす記号や文字といった文字言語。

インターネットによる技術革新は国境線を溶かし、文化の混淆、融合は加速度を増す。

そんな世の中で重要なことは、先人から学ぶこと。かつての人々がその場所で何を感じ何を考え、何を残したか。

そして私たちはここから何を生み出すのか。

先人達から学びつつも、生み出されるものは「今ここに生きている私たちが、何を感じ何を考えているか?」というところから生まれたものだ。

自分たちの今のリアルは、きっと固有性よりも、流動性の中から生まれ出てくるものだと思っている。流動していくものの中で何を見出すのか。そしてそれはこの流動する世の中でありながら、砦となり、そこに確かに立ち得るものか?

技術革新の恩恵を受けながら暮らすわたしは、一方で身体から文字や言葉や感情が乖離していき、拠り所のなさを感じることがある。

その気づきこそが重要で、それは大切にしなければならない。

芸術家はそうした時代の空気を感じ取りながらも、それとは違う行動をとるところにその役割があると思っている。

なぜなら、一つの潮流(ムーブメント)が世の中をことごとく一色に染めてしまうことほど恐ろしいことはないからだ。

多様性が失われるということは、それぞれが秘めたいく通りもあるはずの可能性の否定を意味するからだ。

多様性が大事と言われるが、それは題目ではなく、生命の重要な問題だ。

書に関してはこれからの世の中においてその必要性は必ず再検討されるだろう。

それは思考の原点には言葉が常に寄り添い、それを生身の身体によって書く行為に人間の叡智と本能の原点を見るからだ。
わたしは試みる。

「ことば」を媒介にして、 音と文字と、 身体(視覚や聴覚や触覚)と、行為(記すこと、打ち込むこと、動くこと、思考すること)を再度結ぶことを。

境界が溶ける世の中に生きて、そこからまだ見ぬものを生み出すために。

メルトランゲージ

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余白について

画像  昨年の夏頃のメモ

モチーフとなった言葉を振り返ってみると、無意識のうちにしていたことは、もしかしたら「言い切ること」ではなく、「余白を残す」ということだったのかもしれない。

それは画面上の余白ではなく、そこから想像する余地を残しておくということ。

言っても言っても言い尽くせないから、そうとでも言っておくしかない。

でもそのことによって、思考が停止することを防ぎ、継続した追求を可能にしているのかもしれない。

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FROM “SEWAGE Treatment Facility”


これができたときに、これまで考えたり、書いたりしてきたものを凝縮した作品ができたという手応えがあった。

井上有一が自分の個性をそのまま出すことの重要性に気づいた「自我偈」や、様々な試行錯誤を経て漢字に回帰した「愚徹」を生み出したときに感じたであろう確かな手応えとか実感。(制作者の精神的な充実や、その後のモチベーションにおいて最も大事なのは「実感」だと思っている。)

それが書き手の内面の発露としてもモチーフとしても、ビジュアルとしても、ギュッと結晶している作品。

振り返ってみて、試行錯誤を続けていれば、必ずそうしたその後の歩みのターニングポイントにあたる作品が生まれてくる。これは誰しもそういう可能性を持っている。

自分も続けていくうちにそうした作品が時々あって、それは往々にして、もう自分には全く才能がないんじゃないかとか、あがいてもあがいても全く先が見えそうにない、そんな行き詰まりの臨界の先に出てくる。必ずと言ってもいい。

だからもう最近は、しばらく全然素晴らしい作品ができなかったり、面白いアイディアが出てこなかったりしても、ほとんどうろたえることはない。

行き詰まるのは、それまでのレベルでは満足できない自分になってしまったからであって、行き詰まるということ自体が、既にその先に何か新しいものが生まれる予兆なのだと思っている。
このSEWAGE Treatment Facilityも、自分にとって物凄く重要な作品だ。   それまでの自分のスタイルが、新たな形式として進化して現れたからというのもあるが、大事なのはそこに確かな実感を伴って現れた作品だからだ。
その後の作品は、どれもこのSEWAGE Treatment Facilityという作品が内包する、スタイル、ものごとの捉え方が土台としてあって、そこから連想したり、融合したり、飛躍して生まれた派生的な作品である。

終末処理場というのは僕にとっては、生活の中で汚れたり、痛んだり、役割を終えたものが最後に行き着く場所であり、

それがその場所の機能によって、再び外の世界へ還元される場所なのだ。

そうした言葉が持つ有機的な性質に気づかせ、その後の様々な作品のイマジネーションの源泉としてこの作品が生まれたことは、僕にとってとても意義のあることだと思っている。

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