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「飛沫考」

僕の作品には墨の飛沫が沢山出てくる。そこにはアクションペインティングや前衛書道の影響は勿論ある。だけど、それは近代芸術の特許ではないと僕は思う。

平安時代に書かれた空海の崔子玉座右之銘にも見られるように、墨が人から離れて散って紙の上に現れたものに何らかの感興を覚えるというのは近代とか現代とかの枠を超えた超時代的なものを感じる。

有一は飛沫はあくまで自然発生的に起こる筆の動いた跡の一部と言ったが、僕は別に故意にやっても良いと思う。アホみたいに飛沫バンバンやりたいならそれはそれでやれば良いんじゃないかと思う。
最近ふと思ったのが、当然のことだが飛沫というのは故意であれ自然であれ、物理なのであって、それは見方を変えれば人の身体を介して墨が遊んでいるように思う。

遊んでいるのは墨の方、あるいは墨と人の掛け合いによる遊びと考えた方が、より作品世界に広がりを持ってくるような気がする。

何というか、個の内にクローズしていくのではなく、作品というのは個人の把握を超えたところにあって、それをまた見て考えて、と常に応答的に進んでいくように思う。
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それは、ことばに関しても同じようなことを思う。最近人の思考というのはその人がするものではあるけれど、思考というのは想像や閃きが絡んでいくことで、創造的なものが生まれる。

何というか自分という個人は容れ物であって、そこに言葉やら日常の断片やらそういうものが入ってきて遊んでいる、そんな感じがする。それらが勝手に遊びだす、それを閃きと言い、それに「ほう、それって?それからどうなるんやろ?」と尋ねるのが思考というのかもしれない。遊ぶものと尋ねるものそれらは相互作用を起こす。

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